夏の気配を感じる頃となりました。いかがお過ごしでしょうか。
お土産の買い忘れや、お気に入りの商品をもう一度いかがですか。
”法師オリジナル”な商品もそろえております♪
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加賀の戦国武将 8枚セット
¥2,320
加賀の戦国武将「前田利家」「前田利常」「山口玄蕃」「溝口秀勝」「鈴木出羽守」「村上頼勝」「丹羽長重」「柴田勝家」の武将印8枚セットです。 戦国時代から安土桃山時代にかけて加賀の国を舞台に活躍した戦国武将のセットになります。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【加賀の戦国武将 8枚セット】 ■前田利家 武将印 1 枚 前田利常 武将印 1 枚 山口玄蕃 武将印 1 枚 溝口秀勝 武将印 1 枚 鈴木出羽守 武将印 1 枚 村上頼勝 武将印 1 枚 丹羽長重 武将印 1 枚 柴田勝家 武将印 1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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前田利家 武将印(ぶしょういん)
¥330
前田利家の武将印(ぶしょういん)。 前田家の家紋「梅鉢」を配した武将印です。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈前田利家について〉 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。 はじめ小姓として織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。 その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。 信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従。 以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【前田利家 武将印(ぶしょういん)】 ■ 前田利家 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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前田利常 武将印(ぶしょういん)
¥330
法師とゆかりのある、前田利常の武将印(ぶしょういん)。 前田家の家紋「梅鉢」を配した武将印です。 当館「法師」にも何度か投宿され、黄門杉をお手植えされたと言われております。 黄門杉は、現在も法師の玄関前にございます。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈前田利常について〉 安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。 前田利家の四男として誕生。徳川将軍家、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎え、徳川家との関係も深く、また四女の富姫が八条宮智忠親王妃となり、幕府に批判的な後水尾院とも深く親交したこともあり、京風文化の移入にも努め、「加賀ルネサンス」と呼ばれる華麗な金沢文化を開花させます。 江戸、京都などの文化を好んだことからもかぶき者としても有名で隠居後は法師のある小松市にあった小松城にて治水や農政事業、また御細工所を設立し、金工師の後藤顕乗や後藤覚乗、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛など、京都や江戸から優れた一流の名工たちを高禄で召し抱え、藩内の美術工芸の振興に努めました。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【前田利常 武将印(ぶしょういん)】 ■ 前田利常 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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溝口秀勝 武将印(ぶしょういん)
¥330
溝口秀勝の武将印(ぶしょういん)。 五階菱紋をあしらっております。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈溝口秀勝について〉 溝口秀勝は、溝口勝政の長男として1548年に生まれました。 20歳頃から丹羽長秀の家臣となり加賀大聖寺の城主となり、のちに豊臣秀吉につかえます。 関ケ原の戦いでは東軍に属し,上杉遺民一揆を鎮定。初代、新発田藩主となった。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【溝口秀勝 武将印(ぶしょういん)】 ■ 溝口秀勝 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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山口玄蕃 武将印(ぶしょういん)
¥330
山口玄蕃の武将印(ぶしょういん)。 檜扇の紋をあしらっております。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈山口玄蕃について〉 山口宗永は、山口光広の子として1545年に生まれました。 初めは山口宗長とも名乗り、山口甚兵衛、山口玄蕃頭宗永とも称します。 豊臣秀吉に仕え、慶長2年(1597年)、小早川氏を継いだ秀吉の甥・小早川秀秋の補佐するため豊臣政権から付家老として送り込まれ、慶長の役では朝鮮に渡って秀秋を補佐しました。しかし、秀秋とは折り合いが悪く、秀秋が慶長3年(1598年)に筑前国名島城から越前国北ノ庄城へ転封されると、加賀大聖寺城の独立大名に取り立てられました。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【山口玄蕃 武将印(ぶしょういん)】 ■ 山口玄蕃 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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鈴木出羽守 武将印(ぶしょういん)
¥330
鈴木出羽守の武将印(ぶしょういん)。 八咫烏の紋をあしらっております。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈鈴木出羽守について〉 鈴木出羽守は、白山麓山内惣庄の旗本、鈴木氏の一族といわれていますが詳細は不明。 築城年代は定かではありませんが、鳥越城を築城。 鈴木出羽守は加賀一向一揆、白山麓山内衆の総大将として織田信長による加賀侵攻に対抗。天正8年(1580年)柴田勝家によって攻められ二曲城とともに落城、鈴木一族は滅亡しました。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【鈴木出羽守 武将印(ぶしょういん)】 ■ 鈴木出羽守 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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村上頼勝 武将印(ぶしょういん)
¥330
村上頼勝の武将印(ぶしょういん)。 下り藤の紋をあしらっております。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈村上頼勝について〉 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。越後村上藩初代藩主。 頼勝は信濃村上氏に出自するものとされるが、その系譜は判然としない。 初名を政之助といい、信濃村上氏が没落した後、12歳のとき丹羽長秀の客分に招かれた。 天正10年(1582年)頃、長秀は近江海津城を修復し、頼勝に守らせたました。また、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に助勢した長秀は、戦後越前・若狭・加賀南半国(能美郡・江沼郡)を与え、これに伴い、能美郡の小松城には頼勝が入場。小松城主となりました。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【村上頼勝 武将印(ぶしょういん)】 ■ 村上頼勝 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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丹羽長重 武将印(ぶしょういん)
¥330
丹羽長重の武将印(ぶしょういん)。 筋交いの紋をあしらっております。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈丹羽長重について〉 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。越後村上藩初代藩主。 元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として誕生。 織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに出陣し、その後秀吉から羽柴姓の名字を与えられました。 同年に父が死去し、越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を相続した。ところが、佐々成政の越中征伐に従軍した際、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、羽柴秀吉によって越前国・加賀国を召し上げられ、若狭1国15万石となり、さらに天正15年(1587年)の九州平定の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、僅かに加賀松任4万石の小大名に成り下がった。これは、秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐために行った処置であるといわれている。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜されました。その後、秀吉による小田原征伐に従軍した功によって、加賀国小松12万石に加増移封され、このときに従三位、参議・加賀守に叙位・任官されたため、小松宰相と称されました。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【丹羽長重 武将印(ぶしょういん)】 ■ 丹羽長重 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙
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柴田勝家 武将印(ぶしょういん)
¥330
柴田勝家の武将印(ぶしょういん)。 二つ雁金紋をあしらっております。 武将印としてお楽しみいただけるほか、ポストカードサイズのフレームに入れてお楽しみいただけます。 ■ご注意下さい こちらの御城印や武将印は、お城や城跡の管理者が発行する入場などの証明書ではございません。個人が記念としてお楽しみ頂けるようお役立て下さいませ。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 〈柴田勝家について〉 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。越後村上藩初代藩主。 柴田勝義の子といわれていますが出自は不明です。 天正8年(1580年)3月、信長と本願寺に講和が結ばれた途端に北陸方面は活発化し、 勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を攻め滅ぼして、軍を北加賀・越中境まで進め、一向一揆を制圧。11月、加賀を平定する。さらにその勢いのまま能登国・越中国にも進出を果たす。 また、佐久間信盛が失脚したことによって、名実ともに織田家の筆頭家老に位置しました。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 【柴田勝家 武将印(ぶしょういん)】 ■ 柴田勝家 武将印(ぶしょういん)1 枚 ■サイズ:100×148㎜(はがきサイズ) ■紙